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【7期生】史跡めぐり 韮崎

夢甲斐塾の史跡めぐりのブログです。




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参加者   横山、真壁、金丸、柴田

行き先   11時00分 韮崎市役所集合

      11時15分 武田八幡宮

      11時50分 願成寺

      12時45分 新府城

      14時30分 解散





・武田八幡宮



武田八幡宮は弘仁13(822)年勅命により土地の神、武田王の祠廟に九州宇佐八幡を勧請し併祀して創建されたという。武田王は日本武尊の御子で武田村の桜の御所でこの土地を治められた。さらに清和天皇の貞観年間(859~76)に京都石清水八幡を勧請し甲斐武田氏の崇敬をあつめた。特に新羅三郎義光の曾孫信義は武田八幡宮の社前で元服し武田氏を名乗り甲斐武田が発祥した。

武田晴信(信玄)は父信虎の本殿再建を引き継ぎ天文10(1541)年12月23日に竣工させた。雄大な姿と華麗な装飾を備えた本殿は昭和4年国指定重要文化財に指定された。勝頼夫人は新府城落城の寸前の天正10(1582)年2月19日氏神武田八幡宮に勝頼の戦勝と武田家の繁栄を祈願し切々たる願文を奉納した。徳川家からは27石余りの御朱印を与えられ保護された。









二の鳥居

神社、お寺は、鳥居から拝見するのが一番美しいそうです。

この武田八幡宮の鳥居は道路のど真ん中です。

韮崎の方々が守ってきたのでしょうね。





武田勝頼の正室、北条夫人の願文の解説です。



「北条夫人は高貴で気高い人柄で、周囲の人々に良い影響を与える淑女であられます」恵林寺の快川和尚が、北条夫人と対面した時の印象だそうです。







武田八幡本殿



本殿



天文10年(1541)に武田晴信(信玄)が再建したもので、三間社流造で、屋根は檜皮葺。国の重要文化財に指定されている。尚、本殿裏手には若宮八幡神社本殿(県指定文化財)が建てられている。







武田八幡記念写真



・願成寺



武田の祖、武田信義公が累代の祈願所として再興した寺、願成寺。ここには平安文化を伝える寺宝、阿弥陀山尊像が安置されています。木造阿弥陀如来像、その両脇に観世音菩薩、勢至菩薩が控え、荘厳で上品な姿に心が洗われるようです。





武田の祖、武田信義のお墓

800年前の方のお墓におまいりさせていただきました。





願成寺記念写真



・新府城



歴史

天正三(1575)年の長篠・設楽ヶ原合戦で大敗した武田勝頼は、一門衆の穴山信君(梅雪)の進言で甲府・躑躅ヶ崎館からより要害の効く七里岩の断崖上に新城を築くことを決め、真田昌幸を普請奉行に任命した。天正九(1581)年に築城が始められ、そのわずか九ヵ月後の同年12月に普請なかばで入城した。そのわずか三ヵ月後の天正十(1582)年二月、木曾義昌の離反から織田・徳川の甲斐侵攻が始まり、未完の城では大軍を支えきれないと判断した勝頼は城に火を放ち落ち延びた。この時、岩櫃城に退くことを進言した真田昌幸の言を入れず、小山田信茂の岩殿城を目指したが、三月十一日、笹子峠で信茂の謀叛に遭い、岩櫃城を目指して天目山に分け入ったところを滝川一益の軍に遮られ、勝頼父子は自刃して果てた。新羅三郎義光以来28代続いた名門、甲斐武田氏は滅亡し、新府城は最期の城となった。新府城の残骸では、甲斐に攻め入った織田信長や、本能寺の変の後、甲斐・信濃に侵攻した徳川家康が陣所として利用したこともある。



名門・甲斐武田氏の最期の城になってしまいました。もともと先代の信玄は「人は石垣、人は堀」の歌で知られるように、領国内に城は構えず、人心収攬こそ最大の防御、という信念を持っていましたが、この天正十年前後の情勢では、長篠設楽ヶ原での敗戦が尾を曳いている上、極度の緊迫状態から、要害堅固な城を構えざるを得なくなっていました。



この築城は穴山信君の進言で行われ、その信君の領地にある「七里岩」と呼ばれる断崖絶壁がその城地に選ばれましたが、実はこのとき、すでに信君は徳川に通じていたといいます。一門衆のなかでもとくに信玄との繋がりが濃い信君は、若年でしかも諏訪氏の血を引く勝頼をいつも見下していたといいます。そして、徳川に通じた信君は、武田家の経済基盤を破綻させるためにこの築城を進言したというのです。それは見事に当たってしまい、材木の調達を命ぜられた木曾義昌が真っ先に離反、また強引な遷都に快く思わない重臣、積もり積もる戦陣の軍費調達のために酷使される民衆の不満が頂点に達し、にっちもさっちも立ち行かなくなった、と。



よく勝頼は短慮で浅はかな大将であった、と思われていますが、果たしてそうだったのでしょうか。父信玄があまりにも偉大すぎたこと、諏訪の血を引く自分に家臣が着いて来なかった、頼みにしていた本願寺勢力が防戦に四苦八苦で頼りにならなかった、など、勝頼が自分の力を発揮できないような周辺環境が彼の評価に大きく影響したのではないでしょうか。なにより、織田の勢力が強大になりすぎ、それに比して家臣団を始めとした領国がまとまらない状況では、勝頼でなくても立ち行かなくなっていたことでしょう。勝頼自身は、武勇にも知略にも優れ、また外交面での努力も伺えたと思っていますが、やはり「天の声、地の利、人の心」の三拍子が揃わなかった、武運に見放された、ということですね。やっぱ一番悪いのは信君だと思うけど。



城は断崖絶壁の「七里岩」を最大の要害としていますが、山城というよりは後世で言うところの平山城でしょう。しかしいくら地形が堅固でも、やはり普請が未完成な印象は否めません。とくに北側の出構えなどは、いかにも応急処置的で、本来ならばさらに曲輪を築く、堀を重ねる、土塁または石垣の外郭線を築く、などの工夫があっても良かったところです。二重の土塁虎口などを見ていると、普請奉行の真田昌幸は、自らの居城・岩櫃城をモデルにプランニングしていたのでは?とも思われます。しかし、それらは陽の目を見ることもなく、逆に在城三ヶ月にして自落という哀しい終わりを迎えます。この新府城で戦闘が行われたわけではないのですが、この時点で命運が定まってしまったのかも知れません。



なお、見学中に盛んに鉄砲のような音が響いていましたが、なんと釜無川対岸にライフル射撃場があって、その音だということがわかりました。新府城の廃城後、400数十年を経てもなお、勝頼は鉄砲の音から逃れられないとは・・・せめて安らかに眠らせてあげて欲しいと思うのだが。







新府城の階段

20代、30代の我々でもバテバテになりながら登りました。





本丸でのランチ



勝頼の想いにはせながら、お昼ご飯をいただきました。

それにしても、広いお城の跡地です。

もしも、というのは言ってはいけませんが、

もしも、新府城が残っていた現代の様子を想像してみると楽しい物です。



今回は初めてですが、本職のガイドさんに依頼せずに、

同じ夢甲斐塾7期生の真壁さんにガイドをお願いしました。

現場の下見と予習もしていただき、素晴らしいガイドをしていただきました。


真壁先生、有り難うございました!


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夢甲斐塾は上甲晃塾長の教え『自修自得』の心で実践と凡事徹底を基本的な理念としております。

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